2006/05/02

続・詩と十字架


前回に続きわたしの思いについて書きたいと思います。

神様はわたしの思いをことごとく砕いてこられました。全てにおいてと言ってもよいと思います。
悲しみも喜びも、苦しみも楽しみも、涙も笑いもすべてについて砕いてこられました。
わたしは、自分勝手な思いで全てがみこころであると誤解し生きてきました。わたしの思いは、神様の用意されたものとは違い、時には醜く時には美しく、時には悲しく時には喜びをもって示されました。

みこころを求めて生きていたい。

どんなときにも、わたしの思いではなく神のみこころがなるようにしてほしい。
悲しみを伴ったとしても、みこころのように神様がわたしを導いてくださるように・・・・・。

今まで神様のみこころに反したことをしてきた。自分の思い通りになるよう、これは「みこころである」と自分に言い聞かせてきた。
わたしの思いをことごとく砕かれた神様は、次にわたしに何をしてくださるのだろうか。

祈り求め、御言葉によって示されることを心から望んでいる。

み言葉(聖書)に反するような、みこころはこの世には存在しない。神は普遍なる方だからだ。
み言葉(聖書)は、いつも喜びをわたしに与えてはくれるとは限らない。時として、み言葉によって悲しい思いをするときもある。してはいけないこと、しなければならない事が聖書には書いてある。自分勝手なわたしは、このみ言葉(聖書)はわたしに宛てられて書かれたものではないと決め付け除外する。自己中心的な思い上がりをしてしまうのだ。
決して神は侮られるような方ではないのに・・・・・。

喜びをもってみ言葉に従うことがある。
悲しみをもって、み言葉(聖書)に従わなければいけないこともある。
自分の思いにばかりみ言葉(聖書)を解釈しようとする、わたしをこれからも神様は砕いていってほしい。そして、わたしは神様に従いより頼んで生きていく。
人からは、不幸せな人生と思われても良い。
自他ともに幸せではなかったと思うような人生も神様の目からは、「わたしだけの幸せな人生」を与えてくださるのだから。

悲しみは、悲しみとして今あってもよい。苦しみが、苦しみとして今あってもよい。呻きが呻きとして今あってもよい。
御国(天国、神の国)で、神様ご自身のみ顔を拝し、涙をもってわたしは言うだろう。

「悲しかったけど、辛かったけど、わたしはこうして神様の御顔を見ることができて幸せです」と・・・・・。

「本当にありがとうございました」と・・・・・。