2010/08/08

へバーデン結節とそれに伴うガングリオン

祖母や母からの遺伝因子の一つに、へバーデン結節があります。いつの日にかやってくるであろうと思っていた手指の第一関節の変形が進行し始めました。

【へバーデン結節】
手の指の第一関節が変形する関節変形症の一つ。原因は不明。遺伝による因子もあるといわれている。治療法は現在全くない。変形に伴い痛みが発生するが変形の症状が治まると次第に痛みはなくなる。痛みに対する治療として局部の湿布塗り薬で対応する以外にはない。
【σ(・_・)の現状】
「右手」 人差し指、中指、薬指の変形が始まって痛みがある。小指は完全に変形し終わって固定化し第一関節は全く動かない。
「左手」 中指、薬指、小指が変形し始めており痛みがある。

【へバーデン結節に伴うガングリオン】
へバーデン結節により第一関節から水が溜まり、袋状のものが皮膚の下にでき膨らむ症状。内分泌液は透明のゼリー状(ゼリー状というより、セメンダインのような感じ)。指の爪の下部にでき、皮膚が薄いため皮膚が破れ内分泌液が出ることがある。それに伴い傷ができ、何度も繰り返すことで痛みを伴う。
一般のガングリオンは手具備などにできる場合が多く、自然に消滅したり、穿刺により内分泌液を抜くことで解消される場合があるが、へバーデン結節に伴うガングリオンの場合、関節の変形というものが根底にあり、手術以外の方法では治癒することは難しい。手術は、皮膚下の袋状のものを取り除き、爪の根元を除き、さらに骨を削る。この手術の結果第一関節の痛みという副作用がある。また、再発率はとても高いようです。
【σ(・_・)の現状】
左手中指に、発生しています。二月前にガングリオンが破れ、その後何度も破れて小さくなり、大きくなるというくり返しです。現在は整形外科において経過観察中です。今の対処の仕方としては、ガングリオンを圧迫して大きくなるのを遅らせるという方法をとっていますが効果はありません。いずれ手術という形になるようです。

いつかやってくると思いつつも、こうやって身に降りかかるととても辛いものがあります。指の痛みはPCのキーボードを打つのも辛いときもあります。生活には支障はないとはいえ、陶芸家として致命傷になりかねないへバーデン結節。手術しても治らないかもしれないガングリオンとどうやって付き合っていけばいいんでしょうか。

これが私の人生の形なのかも知れません。悲しいことではありますけど、父なる神様に委ねこれからの人生を歩んでいくとしましょう。

2007/03/16

聖書にはなんと書いてあるのか?

最近あることでヤフーでは超有名?な牧師とスカイプで一時間以上も話すことになった。話すきっかけは超有名?牧師がチャットにはまってしまったために、現実の教会の教会員のことを後回しにするというお話しを、その超有名な牧師の教会員の方に相談?(もしかしてただの愚痴?だったりして)を持ちかけられたためだ。
はじめは、教会の考え方・牧師の考え方について知る必要があったために回りくどい質問をさせていただいた。そしてあることに気が付いた。この方は、はじめに「聖書ありき」ではない。はじめに思想ありきの牧師だということだ。牧師の思想スタイルは聖書をよく読みなにが書かれているかを判断するのではなく、異なったキリスト教会の各教義(思想も含むかな)によって判断しているのだ。
わたしは、何度も聖書にはなんと書かれていますか」と尋ねた。さらに聖書に書かれていないことまでも自分流にアレンジして解釈しようとされていた。また、私が以前通っていた牧師とかなりの点で似かよっていた。
牧師 is Best ! なのだ。
自分が考えていることはベストであって普通一般の人にも受け入れられると勘違いされている。
自分が嫌なものは、他の方も嫌であり、良いと考えるものは他の方にとっても良いと考える牧師。
勘違い牧師の典型的なパターンである。

だから・・・人の忠告は・・・自分の考えと一致しないものは一切受け入れない。一致するものだけを受け入れる。そして一致しない忠告は牧師への非難として受け入れる。

如何にチャットの世界で多くの人が集まろうと、リアルな教会で多くの人が去っていく現状をケースbyケースだとのん気に話している性格もいかがなものか。
チャットにのめりこんで教会員の牧会を後回しにしてしまう変わった牧師がいることに驚いた。

私は言いたい牧師の職務は

「聖書にはなんと書かれているのか」

と大きな声で・・・・

2007/02/20

生まれて初めて・・・・・。

私が教会に通うきっかけを作った人に今日20数年ぶりに再会した。

その方は私が生まれて初めて出会ったクリスチャンであり、アメリカ人の宣教師ボブ・マッケミー師その人だった。
マッケミー先生は当時奥多摩バイブルキャンプ場のディレクターをされていた。わたしもそのキャンプ場で毎年参加者として、またワーカーとして過ごし、たくさんの思い出と学びをした。現在のわたしの信仰の土台がそこで形成されたといっても良いかもしれない。

数日前からマッケミー先生と会いたいと思っていた。偶然にも??某電気屋の階段で二人のアメリカ人とすれ違い、ふと見ると風貌は老いたとはいえまさしくそのマッケミー先生だった。

思わず「マッケミー先生!」と声を出してしまった。
不思議な顔をしてマッケミー先生は振り返りわたしの顔を見る。

「お久しぶりです。20数年ぶりですね・・・・」

マッケーミー先生は私の名前を覚えていなかった。

悲しかった。

辛かった。

今まであったことをいろいろ話したかったのに。そしてもう一度初心に戻りたいと思っていたのに。

しかし、先生は私の名前を覚えていなかった。

Σ('□'*('□'*('□'*('□'*)ガビーン!!

そして、「またね!」と別れた。

( ̄へ ̄) ウーム 悲しいよねこれって・・・・・・。

でも、また会いに行こう。先生は昔と同じようにわたしが以前通っていた教会にいるのだから。

「陶工房」の執筆にあたって

「陶工房」2月20日号がいよいよ発売される。
「陶工房」の執筆を昨年7月に依頼されて半年以上が経つ。思いもかけない依頼だったが何とかここまで来たかなと思いつつも、これでよいのだろうかと考えさせられる。
2月20日号では、韓国から来た陶工たちのことに少し触れた。その一文を韓国の方に見せたところ、お叱りの言葉を受けた。韓国人の陶工は日本に来たのではなく、拉致されてつれてこられ幽閉されて作業に従事させられたのだということなのだ。
確かに私たちは北朝鮮に拉致された日本人のことばかり考え話題にするが、日本人こそ朝鮮半島から多くの人を拉致し仕事に従事させている事実を忘れ去っている。安土桃山時代には豊臣秀吉が、第二次世界大戦を前後して多くの朝鮮半島に住んでいた人々を武力をもって拉致してきた。今現在も在日韓国人、朝鮮人の方々が日本には多くいる。そして日本経済や文化を支えている。文禄・慶長の役において連れてこられた陶工たちの子孫は、現在も日本で活躍している。また、韓国の窯産地の復興を手助けした。驚くべき歴史だ。驚くべき朝鮮半島の人々。私は、とてもすばらしいと思う。
そして悲しい歴史をこれからも正しく伝えていきたい。そして謝罪するべきは謝罪しなければいけないのだと思う。
次号ではそのことに少し触れたいと思う。日本の陶芸文化は朝鮮半島のたくましい人々によって支えられてきたことを書きたいと考えている。

2006/10/07

死を見つめて

このブログは、私の伯母の死に遭遇して止まってしまった。

そして、叔父の死・・・・。信頼していた牧師の死をもって感極まってしまった。

死という別れはとても辛い。誰もがこの死を迎えるとはわかっていても、自分だけは死なないような気がする。自分は大丈夫、死ぬなんて何十年も先のことと高をくくって生きているのではないだろうか。
私も、高をくくって生きている人間の一人だ。
伯母は、脳梗塞で眠るよう逝った。
叔父は、肝臓癌で・・・気がついたときには全身に癌が転移していて、ひと月も持たなかった。
牧師は、前立腺癌で余命一年の宣告を受けながらも、三年の闘病生活を続けつつ牧会された。
伯母や叔父の死は望みというものはない。悲しみがそこにはあり、残された人々は、ただ思い出だけを語り合う。
私は、クリスチャンであることを感謝している。死はわたしにとって恐れではないからだ。
クリスチャンにとって死は、神の国への勝利の凱旋であろうか。
胸を張って死んでいくのも滑稽だが、クリスチャンは胸を張ることが赦されている。そしてクリスチャンにとっては、死は最後ではない、滅びではない。死は、新たな旅立ちであり、永遠の始まりである。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(新約聖書:ヨハネの福音書3章16節)

死をこれからも身近なものと考えるようにならなければいけない。
そして、その備えもしたい。不様な死に様をこの世に残さないためにも。

2006/05/02

続・詩と十字架


前回に続きわたしの思いについて書きたいと思います。

神様はわたしの思いをことごとく砕いてこられました。全てにおいてと言ってもよいと思います。
悲しみも喜びも、苦しみも楽しみも、涙も笑いもすべてについて砕いてこられました。
わたしは、自分勝手な思いで全てがみこころであると誤解し生きてきました。わたしの思いは、神様の用意されたものとは違い、時には醜く時には美しく、時には悲しく時には喜びをもって示されました。

みこころを求めて生きていたい。

どんなときにも、わたしの思いではなく神のみこころがなるようにしてほしい。
悲しみを伴ったとしても、みこころのように神様がわたしを導いてくださるように・・・・・。

今まで神様のみこころに反したことをしてきた。自分の思い通りになるよう、これは「みこころである」と自分に言い聞かせてきた。
わたしの思いをことごとく砕かれた神様は、次にわたしに何をしてくださるのだろうか。

祈り求め、御言葉によって示されることを心から望んでいる。

み言葉(聖書)に反するような、みこころはこの世には存在しない。神は普遍なる方だからだ。
み言葉(聖書)は、いつも喜びをわたしに与えてはくれるとは限らない。時として、み言葉によって悲しい思いをするときもある。してはいけないこと、しなければならない事が聖書には書いてある。自分勝手なわたしは、このみ言葉(聖書)はわたしに宛てられて書かれたものではないと決め付け除外する。自己中心的な思い上がりをしてしまうのだ。
決して神は侮られるような方ではないのに・・・・・。

喜びをもってみ言葉に従うことがある。
悲しみをもって、み言葉(聖書)に従わなければいけないこともある。
自分の思いにばかりみ言葉(聖書)を解釈しようとする、わたしをこれからも神様は砕いていってほしい。そして、わたしは神様に従いより頼んで生きていく。
人からは、不幸せな人生と思われても良い。
自他ともに幸せではなかったと思うような人生も神様の目からは、「わたしだけの幸せな人生」を与えてくださるのだから。

悲しみは、悲しみとして今あってもよい。苦しみが、苦しみとして今あってもよい。呻きが呻きとして今あってもよい。
御国(天国、神の国)で、神様ご自身のみ顔を拝し、涙をもってわたしは言うだろう。

「悲しかったけど、辛かったけど、わたしはこうして神様の御顔を見ることができて幸せです」と・・・・・。

「本当にありがとうございました」と・・・・・。

2006/04/25

詩と十字架


「病者の祈り」 : ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁の祈りの詩

大事をなそうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった

より偉大なことができるようにと
健康を求めたのに
より良きことができるようにと
病弱を与えられた

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった

求めたものは
一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた

神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは
すべてかなえられた

私はあらゆる人の中で
もっとも豊かに祝福されたのだ




この詩を、私は数年前に何気なく読んでいた本のなかに見つけた。そして、チャットルーム☆聖書を読む部屋☆で紹介させていただいたばかりだ。
先日、私の通う教会に十字架がやって来た。驚きの何ものでもなかった。
今年の初めに、教会では礼拝に集う人たちの今年度やりたいこと、やり始めたいことをそれぞれ発表した。私は、教会の建物に十字架がなかったので十字架を作りたいと発言した。あれやこれやと考えホームセンターにも行き材料費などの計算もしていた。そして、大きさやどのように建てるかということまで、ほぼ構想は出来上がっていたところだった。そこに、突如十字架がやって来た。私が考えているよりも立派な十字架だ。十字架を立てる方法などは私が考えていたものとほぼ同じだったが、十字架本体は芸術家の作った立派なものであったし、費用も格安だった。なんと、タダ!
別の大きな教会につけられていたものだったが、十字架を付け替えるということで不要になったものを譲り受けたものだ。

病者の祈りの詩を再確認したばかりであったので、本当に神様は私の望んだことよりもすばらしいものを与えて下さったと・・・。私自身が準備していたことは、無駄になったけれども ・・・・ ^^;

(/ ̄ー ̄)/‥∵:*:☆*゜★。::*☆ハレルヤ!!

2006/04/15

草津温泉報告第三弾 写真編

                              
観光湯もみのみれるところ


 


湯煙で見えない
火傷をした風呂
真ん中アタリにオーブが見える右側に湯煙の加減だろうけど人の頭らしきものが映っている




白糸の滝 写真では大きく見えるがせいぜい4~5メートルの高さだ Posted by Picasa

草津温泉報告第二弾

泊まったホテルはホテル○○という、湯畑の目の前にあるホテルだ。直前プランでの宿泊だが格安な割りには、とてもサービスが良かった。食事は、ホテル内のレストラン。
【夕食の内容】
1.先付け    
   胡麻豆腐のあんかけ
1.前菜たちの楽しき語らい    
   天子の煮びたし     
   ミニ茶わん蒸し    
   甘いフルーツトマトとモツァレラチーズ    
   生ハム、バケットにのせて    
   シュリンプカクテル    
   焼しめじ、スダチ
1.春雪舞う中で本日の御造り
1.大地の恵をうけて本日の御煮物    
   かぶの含ませ煮
1.湯畑をながめなが湯畑鍋       
   上州野菜ときのこ    
   一田屋さんちの手作りとうふ    
   ゆば
1.春寒の中で鉄板焼きを    
   上州牛 又は  白身魚    
   上州フィレ牛   ホースラディシュソース           
             天然塩      
      スペシャルソース    
すずきのポアレ セミドライトマトソース           
さっぱりレモン マッシュルームソース
1.銀色に輝くごはん    
新潟有機米内山義男さんの田んぼで作ったこしひかり
1.早春の夕げには暖かいお椀を    
   冬野菜のみそ汁    
   香り物 三品
1.おしゃれなあなたにデザートを    
   ベリーいろいろソース チーズケーキ    
   りんごスープ(実は濃厚りんごジュースだった) 
   バニラアイスとともに

とても美味しかった・・・・・が、難点を言うとしたら座る席がとても狭かったことかな。身動きが出来なかった^^朝食は、雑炊などもありかなりボリュームがあった。

翌日は、10時チェックアウト帰りのコースは軽井沢経由にしてみた。チェックアウトするときに、観光の見所をたずねると「鬼押し出し」と「白糸の滝」を紹介してくれたからだけど・・・・・まぁ行き当たりばったりの旅行なので^^
                              
                          
鬼押し出しの写真よりも白糸の滝の写真を見てほしい。。。。o(゜^ ゜)ウーン実にすばらしい。写真は・・・・。実際は、なんだこれってがっかりした。もっと大きいと思ったのに。イメージが壊れてしまった。悲しい(_ _。)・・・シュン








といいながらも軽井沢に到着。25年ぶりの軽井沢は、派手になっていたものの雰囲気は変わらず人通りもそこそこあって懐かしかった。若い頃、軽井沢のキャンプ場で2週間ほどワーカーとして奉仕したことをしみじみと思い浮かべた・・・・。

一泊二日の温泉旅行でした。  おしまい

2006/04/07

草津温泉報告第一弾

4月6~7日まで群馬県の草津温泉に行ってきました。 関越高速道路、渋川伊香保インターを降りて、35号線から145号線を通り草津に行きました。
実はこのコースはマイナーなコースだった(^o^)ゞ 6日はあまりにも寒く<(; ^ ー^) マイッタマイッタ... 2時に着くはずが思ったよりも早く、草津の街中で食事・・有名な舞茸うどんを食べようと・・・いった先は実は寿司屋。しかし、誰も寿司を注文している人はいない変な寿司屋だった。壁にはなにやら色紙がいっぱい貼ってあったが・・・かなり前のものばかり。 食事が終わってもチェックインには時間があるため片岡鶴太郎美術館に足を運ぶことにした。
・・・数十メートルしか離れていなかったが、道行く人たちが脚を止めているのでふと覗き込むと、お茶と温泉饅頭を持っている。温泉饅頭屋のサービス(〃⌒∇⌒)ゞえへへっ♪
行き過ぎた道を舞い戻り、手を出す(@ ̄¬ ̄@)ジュルリ♪ 美味かった~~~蒸したての饅頭は、アツアツでなんともいえぬ美味しさだった・・・・と思った。
そして20メートルほど歩くと饅頭屋。そこでもサービス・・・・もちろん・・・・モゴモゴ ( ̄~ ̄;)
腹がいっぱいになったところで、鶴太郎さんの絵を拝見。。。。o(゜^ ゜)ウーン魚はすごいけど花は下手くそだな~というのが母ともに持った感想だった。
なんとも言えぬ感想を持ちつつ、外に出ると佃煮や( ̄∇ ̄*)ゞエヘヘ さっそく味見・・・・味見・・・・味見・・・次の店でも味見・・・味見・・・もう食えんな~~
西の河原を見学してホテルにチェックインすべく道を舞い戻るが・・・・またしてもそこには佃煮やと饅頭屋が立ちはだかるではないか。
いや~~さっき頂きましたからと言っても ヘ(゜▽、゜*)ノ ジュル♪

やっとの思いでホテルにチェックイン。 温泉だ~~~何といっても草津だからね^^
街中の無料温泉場を散策。
アツ~~~~死ぬ~~~~・・・・・・。
体中ヒリヒリと半やけど状態で着替えてると地元の人たちが
ヒソヒソ(*´/ー)´ー)フムフム 「まったく今日はぬるくてしかたねぇよ。客が蛇口閉めやがってよ。さっき元に戻したところよ。全然ぬるくってな入れねぇよ」
Σ(='□'=)ウッソー!? アレでぬるいってか・・・・地元の人間は慣れっこなのかこの熱さ・・・・信じられん。 けっこう風呂は熱めが好きだし、熱いのを好んでいるが・・・こんなに熱い温泉は初めて入った。というか30秒も入っていられなかった。

ということで報告終わり 草津温泉報告第二弾をお楽しみに・・・・・・。

2006/04/02

・・・((((( ^-)_∠※ 桜をどうぞ


散る桜 残る桜も 散る桜  

この句は、良寛作と伝えられているが真偽のほどはわからぬまでも、日本人として感慨を覚える一句である。俳句の季語のなかには、桜にまつわるものが多い。

花 山桜 彼岸桜 糸桜 枝垂桜 八重桜 染井吉野 里桜 初花 朝桜 夕桜 夜桜 遅桜 残花 花時 花盛り 花過ぎ 花の雲 花明り 花曇 花の昼 花の雨 花便り 桜月夜 落花 花吹雪 花見 花篝(はなかがり)花守 花冷 花筏 

桜は日本の代表的な花であり、俳句で花といえば桜のことを指す。植物学上からいうと、単に桜と言う植物はなく、種々の桜の総称である。染井吉野は明治の初めに江戸の植木職人が作った品種の一つだ。染井吉野は「サクランボ」を実らせない。染井吉野に実がなり種を採集した人はいないだろう。品種として実がならないものというわけではない。それでは何故、染井吉野は実をならせないのだろうか?それは、もともと桜は自家受粉しない種類であるからだ。つまり、異株同士でなくては受粉せず実もならなければ種も出来ないのだ。染井吉野は、異株が存在しない品種である。(‥ )ン?思われるだろう。こんなに染井吉野はあるじゃないかと・・・。
染井吉野は明治の初めに人為的に作られ急速に増産した桜だ。増産の仕方は・・・。植物クローンの方式をとっている。クローンといっても動物の世界では科学の最先端だが、植物の世界では一般的に行われている「挿し木」「接木」のことなのだ。染井吉野は一本の木から挿し木で増やされた為、全ての木がおなじDNAを持つ、親子同士でも兄弟姉妹でもない自分自身の複製なのだ。異株であっても、固体は分身であるために自家受粉することなく実を熟すこともありえないのだ。

聖書の中で木や実といえば思い出す言葉がいくつかある。エデンの園の中央にある「善悪を知る木の実」「ぶどうの木」「御霊の実」などが上げられる。特に御霊の実に関しては、私たちが望んで実のらさせなければいけないものの一つだろう。

ガラテヤ人への手紙5章13~26節

「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」

御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を生み出すのです。私たちが、これらのものを望むとき、私たち自身も隣人にこれらのことをしてあげようではありませんか。自分のことはさておき、まず隣人のために御霊の実を実践しましょう。そのとき、私たちを助けてくださる方、御聖霊が、私たちを守り導いてくださるのです。
悲しみや、苦しみ、孤独感を味わっている人がいるなら、まずこの御霊の実を実践してみてください。御聖霊があなたを助けてくれるはずです。

2006/03/26

試練と誘惑

ヤコブの手紙1章12~16節

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。」

二つの言葉をみると同じ試みという要素を持っていながら天と地ほどの開きがある。サタンの誘惑を受け、欲に駆られ罪に走ってしまう、罪を犯してしまったこのに気づいて落胆する。誘惑が大きければ大きいほど、その落胆も激しいものだ。私たちの周りには、自分でも気がつかないほどに誘惑が多い。どうかサタンに誘惑にだまされないでほしい。罪の結果は死なのだから。私たちクリスチャンは、神の試練にあい耐え抜いて良しとされたいものだ。主の十字架を信じたものとして神の永遠の命にあづかる事ができる喜びをともに共有したい。

主の御顔があなたに向けられ平安がありますように

2006/03/25

友達の友達は友達 友達の輪

↑ 変なタイトルですよね。o(*^▽^*)oあはっ♪

yahooチャットで☆聖書を読む部屋☆を再開して半年もたっていないのに、かなり知り合いの繋がりが出来ました。

知り合いといっても、チャット上の方ですが私の友人であり知人である人が牧師をしていますが、その教会の礼拝にその方の友人が参加されているのです。

また、私が若いころ(今でも若いと思っているが)お世話になった牧師の弟さんもこのチャット上で知り合った方の一人だ。別カテゴリーにあるクリスチャンチャットの管理人をしているサムソン氏(ハンドルネーム)がその人だ。

チャットをしているとそのように、友達の友達が実はσ(o^_^o)の友達だった知人だったという話は多い。これまでに数えると10人はいるだろうか。

チャット上のことだから個人的な話はあまりしない場合が多いが、この人数を考えると、かなり個人的な部分に立ち入って会話してるんだなと思う事がある。

主イエスの愛が輪を作って行ってくれているのかもしれない。

改めて友達の輪を大事にしたいと思う今日この頃だ^^

2006/03/13

竹脇真理の思い出

もう30年近く前だろうか一冊の本を手にした。その本は「勇ましく高尚な生涯」著者 竹脇真理 いのちのことば社発行のものだ。高校生で脳腫瘍を患い夭逝したクリスチャンの手記(日記)である。この本をHi-BA(高校生伝道協会)のスタッフに薦められて読んだ。
当時の私の年齢と夭逝した竹脇真理とは偶然にも同じ歳だった。脳腫瘍に罹る前と、闘病生活を通しての彼の信仰のあり方、日々の思いがひしひしと胸を打った覚えがある。竹脇真理のお父さんは竹脇昌作というアナウンサーだ。竹脇昌作といっても知っている人は少ないだろうが、戦時中の「大本営発表」というくだりのラジオ放送の声をご存知だろう。
そのアナウンサーが彼の父だ。
さらに言うなら彼の弟は俳優:竹脇無我その人だ。今日たまたまテレビで、大岡越前の番組予告の放送で竹脇無我を久しぶりに拝見させていただいた。癌に苦しむ多くの方々にこの本を読んでいただきたいと思う。40年前の本なので絶版になっているようだが・・幸いにも小学館で復刻しているので是非とも手に入れてほしい本の一つだ。

http://www.s-book.com/plsql/com2_detail?isbn=4093873879

イザヤ53章1~5節

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(日本聖書刊行会発行新改訳聖書より)

2006/03/01

金メダル

トリノ五輪フィギュアスケート女子のフリーで、荒川静香(24)(プリンスホテル)が金メダルを獲得し日本に今大会初のメダルをもたらした。上体を後ろに反らして滑る得意の「イナバウアー」を披露した時には、会場から歓声とどよめきが自然とわき起こった。そして、最後のポーズを決めると、詰めかけた約6200人の観客はスタンディング・オベーションのエールを送った。表彰台上の荒川選手は、首から下がる金メダルを観客席に向けて掲げ、晴れやかな笑顔を見せた。インタビューでは、「力まず、楽しんで滑ることを心掛けた。思い通りに滑れた」と言っていた。演技を終えた直後の感想では「『終わった』という安心感で、これまでの思いみたいなものが込み上げてきました」。金メダル決定の瞬間は、「うれしいというより驚いていました」と本音を語ってくれました。

コリント人への手紙第一9章24節~27節

「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(日本聖書刊行会発行の新改訳聖書より)


使徒パウロは、このように述べている。

ジャンプの原田選手のように失格者が多く出る中、荒川選手は数々の苦難を乗り越え、怪我をしながらもトリノオリンピックに臨み金メダルをとった。私たちも、人生の最終ゴール地点を目指し、賞をとることが出来るように毎日を一歩一歩、歩んでいきたいと思う。

2006/02/18

オリンピック

まもなく日本の登場です・・・・・・・・・・。
テレビの右上に毎日のように見る。…c(゜^ ゜ ;)ウーンいつまでたっても日本は登場しないじゃないか。しびれを切らして、お茶でも飲もうとテレビの前から離れ戻ってみると、その間に日本選手の競技が終わってしまっていた。
せっかくライブで見ようと頑張ってテレビの前にいたというのに。(。_・)ドテッ
どうせなら、「あと何番目に登場です」とかいてくれたらいいのにと思うのは私一人のわがままだろうか。
オリンピックでの中継で耳にたこができるほどに「いいですよ。いいですね・・・・・・あぁ・・・だめだ」という言葉何度聞いただろうか。

私たちに対する神様の対応は正反対だ。
「だめだ、だめだ、そして最後には いいね^^」と言ってくれる。

反対にサタンは・・
「いいよ。いいよ。ほ~~~らやちゃったね。おまえは最悪だ~」と言う。

何について言っているかというと、罪に対してだ。

神様は罪に対してとても厳しい、だめはだめだとはっきりと語る。しかし、従うものに対しては、「いいよ」と言って赦してくれ、守ってくれる。

反対にサタンは、誘惑の言葉、甘い言葉で人間を罪の行動に走らせ、罪を犯した人間には「そら見ろ、おまえは罪人だ。駄目な人間だ」と突き放す。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」【ヨハネの福音書3章16節】

一人も滅びないようにと待っていてくださる方、神。

感謝に尽きない†o(・・) アーメン

2006/02/10

死刑制度について

先日、某新聞に死刑制度についての記事が出ていた。現法務大臣が「私はサインしません」と昨年の秋の就任時に発言して、あわてて翌日訂正したことがあった。私情ではサインしない・・・したくない。しかし公職(公務)とは違うと訂正したのだ。悲しい記事だった。
以前、私が通っていた教会の牧師は死刑制度賛成論者だった。聖書には、人を殺したものは殺されるべきという報復的懲罰が書かれている。そのことを指して、死刑は当然聖書的だというのだ。確かに私もその意見には同調する。聖書にかかれてある通り死刑はあっても良い。が・・・・・。
その死刑を決断し行うのは人間であることを忘れてはいけない。
罪人である人間が、その人の死を決定することができるのだろうか。何もここで博愛主義を訴えようとしているのではない。私は、殺人を犯したものは死刑に処すべきことにはまったく異存はない。
しかし、決断(裁判)が間違っていたらどうなのか?裁判官が決めることは間違いがないのだろうか?殺すつもりがなく、人を傷つけ結果的に死に至らしめてしまった場合は、傷害致死という罪名で裁かれる。殺す意思があった場合のみ、殺人罪が適用され、死刑になる場合があるのだ。傷害致死と殺人では、その下る判決の軽重は甚だしい。先日、ある殺人事件で無罪という結果が出た。きわめて珍しい判決だった。物的証拠がなく、被告の自白だけで起訴し裁判を維持しようとした警察、検事の勇み足だったようだ。否、警察、検事によって、犯人が捏造され裁判が行われたと言ってもよい。警察、検察庁での調書はどのようにして作成されるかというと、容疑者にあれこれと質問し、警察官、検事が文章を作っていく。容疑者は作られた文章に指印を押すだけなのだ。ホリエモンが供述調書に指印しなかったという報道がなされていたが、少しでも同意できなければ認める必要はないのだ。裁判で供述すればよい。しかし、警察官、検事は言葉巧みに容疑者が犯行の意思があった事を認めさせることに長けている。ある場合はおだて、ある場合は脅す。「このまま認めなければ、全面否認で起訴するぞ・・・否認で裁判になったらどうなるかわかってるだろうな・・・認めて裁判になるほうがいいか、否認で裁判になったらいいか結果は考えれば馬鹿でもわかるだろう」と。殺そうなどという意思もないのに、殺す意思があったと認めてしまい殺人罪で裁かれ死刑判決が下される。そんなことはあるはずもないと誰が言えるだろうか。
ある人に聞いたことがある、「犯罪は警察が創るものだ」と。
絶対にあってはならないことだが、事件解決を焦るばかりに事実とは違う犯罪名が作られていく事があるのだ。そして、当の容疑者も連日に渡る警察官(検事)の取調べに耐え切れず、早く楽になりたい一心で何でも認めてしまい、供述調書に指印していくことがあるのだ。
私は、殺人を犯したものに対する死刑には反対しないが、現行の死刑制度には異議を唱える。間違いだらけの人間が人の死を決めることはできない。
決めることができるのは神ご自身だけである。

難しいと思ったこと

難しいなとつくづく思った事がある。
ある方からPM(ヤフーメセンジャーのプライベートメッセージ)が来た。「相談があるんですが」ということだが、どうも前日のオフラインのPMらしい。そこで、夕方ログインしたおりに返信してみた。すると、30分ほどして返信が帰ってきたので、訳をたずねてみた・・・・・1時間ほどその方とPMすることになったが・・・・・。
その方は、相談というより、私に質問がしたかったようだ。私は「相談があるんですが」という彼のことばに、相談という形で答えたつもりだ。しかし、答えていく途中でことば尻を捉え、次の質問をしてくる。質問をする前に、お願いしたかった・・。
チャットやPMではかなり対話にタイムログがあるのは、それを体験した人にはわかってもらえるだろうが、普通の対面しての会話、電話での会話のそれとはだいぶ違う。最後まで、話しを聞いて、それから質問してほしかった。
彼はこう言った「 さっきから言ってるじゃないですか、質問に対してまともに答えないからいやな思いをしたって。」そして、彼は私もまともに答えない一人だと決め付け、PMを終わらせた。
相談したいんだが・・・という彼の気持ちもよくわかる。いずれにせよネット上でのやり取りでのことらしい。
大変難しいと思ったのは、ネット上での「ことばと感情」だ。相手の立場になって話せない。いくら相手の立場になって話そうと思っても、文字で少しだけ会話した相手のことをどれだけ理解できるだろうか。反省することは、多くあるがチャットやPMなどで相手と対話し分かり合えるところまで行くのは難しいなと思ったネット上のやり取りだった。
彼にはリアルにゆっくり話す相手が与えられるように神様に願うだけだ。

教会を紹介する

最近教会を紹介することが多くなった。
わたしの信仰の立場から言うと、どこでもいいから教会に行ってくださいとは言えない。教会と名がついていても、聖書に従はない名ばかりの教会があるからだ。紹介するとすると、私と同じ教派のアナバプテストの教会か、万一地域に紹介のできるアナバプテストの教会がない場合は、一度でも礼拝出席した信頼の置けるプロテスタントの福音派の教会となってしまう。しかしそれでも、私が一度も足を踏み入れていない教会を紹介するのも気が引けるものだ。どんな牧師の教会か、教会の規模はどのくらいなのか、また教会ごとに雰囲気はまったく異なる。紹介すべき教会のことを知らずに・・・心苦しいとしか言いようがないが、それでも明らかに間違った聖書信仰の教会を紹介するよりはましかなとも思える。
また、チャット上での紹介なので紹介する人のことも知らない場合が多い、紹介した教会が私には居心地の良い教会であっても、その方にはなじめない教会だったということもありえるからだ。何にしろ教会を紹介するというのは難しいと思う。しかし、教会を探すという労力も私にとっては、神様の恵みの一つなのだろうから、私は教会を紹介してほしいという人には・・・喜んで探している。

我が家にテレビがやって来た

我が家にテレビがやってきました。
地上デジタル放送があと何年かすると始まるというのに、アナログ対応のテレビを買いました^^
最近テレビの力ってものすごく大きいのだなと思います。ラーメン店の様子が放送されていましたけど、はっきり言ってなんで並ぶのか・・・・美味しいというなら、もっとほかにも美味しい店はあるだろうと思うようなところが出ていました。テレビの広告力というのはすごいですね。
以前通っていた教会の牧師は、礼拝メッセージによくリアルタイムに起こった最新のニュースのなかから事件を喩えに使っていましたが、私は「どうかな?」とよく思っていました。なぜかって???最新のニュースというのは時として事実とは違う場合があるからです。
イラクの戦争を見てください・・・大量破壊兵器があるからだという理由で戦争を始めましたが、その実・・・CIAの間違った情報収集だったことをブッシュ大統領も謝罪しています。当時、私が通っていた教会の牧師は、戦争賛成論者でした。メッセージの中にも大量破壊兵器についての批判的発言があり、戦争は当然だと主張していました。
また、あの松本サリン事件では報道機関の不適切な報道のためにどれだけ河野さんの一家が迷惑したか・・・。テレビの力というのは本当に怖いと思いますし、その力が良い方向に使われるならまだしも、間違った使われ方をすることもあります。ニュースというのは、そのまま事実ではないと常に私は思っています。殺人事件にしても、被害者、加害者の両方の真実を伝えているとは思えません。事件が起こってしまった背景には、報道では明らかにされない部分が多くあるからです。

情報に惑わされず、毎日を過ごしたい。そして、全てのことが明らかになるときが来ます。そのときを静かに待ちたいと思います。