2006/02/10

死刑制度について

先日、某新聞に死刑制度についての記事が出ていた。現法務大臣が「私はサインしません」と昨年の秋の就任時に発言して、あわてて翌日訂正したことがあった。私情ではサインしない・・・したくない。しかし公職(公務)とは違うと訂正したのだ。悲しい記事だった。
以前、私が通っていた教会の牧師は死刑制度賛成論者だった。聖書には、人を殺したものは殺されるべきという報復的懲罰が書かれている。そのことを指して、死刑は当然聖書的だというのだ。確かに私もその意見には同調する。聖書にかかれてある通り死刑はあっても良い。が・・・・・。
その死刑を決断し行うのは人間であることを忘れてはいけない。
罪人である人間が、その人の死を決定することができるのだろうか。何もここで博愛主義を訴えようとしているのではない。私は、殺人を犯したものは死刑に処すべきことにはまったく異存はない。
しかし、決断(裁判)が間違っていたらどうなのか?裁判官が決めることは間違いがないのだろうか?殺すつもりがなく、人を傷つけ結果的に死に至らしめてしまった場合は、傷害致死という罪名で裁かれる。殺す意思があった場合のみ、殺人罪が適用され、死刑になる場合があるのだ。傷害致死と殺人では、その下る判決の軽重は甚だしい。先日、ある殺人事件で無罪という結果が出た。きわめて珍しい判決だった。物的証拠がなく、被告の自白だけで起訴し裁判を維持しようとした警察、検事の勇み足だったようだ。否、警察、検事によって、犯人が捏造され裁判が行われたと言ってもよい。警察、検察庁での調書はどのようにして作成されるかというと、容疑者にあれこれと質問し、警察官、検事が文章を作っていく。容疑者は作られた文章に指印を押すだけなのだ。ホリエモンが供述調書に指印しなかったという報道がなされていたが、少しでも同意できなければ認める必要はないのだ。裁判で供述すればよい。しかし、警察官、検事は言葉巧みに容疑者が犯行の意思があった事を認めさせることに長けている。ある場合はおだて、ある場合は脅す。「このまま認めなければ、全面否認で起訴するぞ・・・否認で裁判になったらどうなるかわかってるだろうな・・・認めて裁判になるほうがいいか、否認で裁判になったらいいか結果は考えれば馬鹿でもわかるだろう」と。殺そうなどという意思もないのに、殺す意思があったと認めてしまい殺人罪で裁かれ死刑判決が下される。そんなことはあるはずもないと誰が言えるだろうか。
ある人に聞いたことがある、「犯罪は警察が創るものだ」と。
絶対にあってはならないことだが、事件解決を焦るばかりに事実とは違う犯罪名が作られていく事があるのだ。そして、当の容疑者も連日に渡る警察官(検事)の取調べに耐え切れず、早く楽になりたい一心で何でも認めてしまい、供述調書に指印していくことがあるのだ。
私は、殺人を犯したものに対する死刑には反対しないが、現行の死刑制度には異議を唱える。間違いだらけの人間が人の死を決めることはできない。
決めることができるのは神ご自身だけである。

難しいと思ったこと

難しいなとつくづく思った事がある。
ある方からPM(ヤフーメセンジャーのプライベートメッセージ)が来た。「相談があるんですが」ということだが、どうも前日のオフラインのPMらしい。そこで、夕方ログインしたおりに返信してみた。すると、30分ほどして返信が帰ってきたので、訳をたずねてみた・・・・・1時間ほどその方とPMすることになったが・・・・・。
その方は、相談というより、私に質問がしたかったようだ。私は「相談があるんですが」という彼のことばに、相談という形で答えたつもりだ。しかし、答えていく途中でことば尻を捉え、次の質問をしてくる。質問をする前に、お願いしたかった・・。
チャットやPMではかなり対話にタイムログがあるのは、それを体験した人にはわかってもらえるだろうが、普通の対面しての会話、電話での会話のそれとはだいぶ違う。最後まで、話しを聞いて、それから質問してほしかった。
彼はこう言った「 さっきから言ってるじゃないですか、質問に対してまともに答えないからいやな思いをしたって。」そして、彼は私もまともに答えない一人だと決め付け、PMを終わらせた。
相談したいんだが・・・という彼の気持ちもよくわかる。いずれにせよネット上でのやり取りでのことらしい。
大変難しいと思ったのは、ネット上での「ことばと感情」だ。相手の立場になって話せない。いくら相手の立場になって話そうと思っても、文字で少しだけ会話した相手のことをどれだけ理解できるだろうか。反省することは、多くあるがチャットやPMなどで相手と対話し分かり合えるところまで行くのは難しいなと思ったネット上のやり取りだった。
彼にはリアルにゆっくり話す相手が与えられるように神様に願うだけだ。

教会を紹介する

最近教会を紹介することが多くなった。
わたしの信仰の立場から言うと、どこでもいいから教会に行ってくださいとは言えない。教会と名がついていても、聖書に従はない名ばかりの教会があるからだ。紹介するとすると、私と同じ教派のアナバプテストの教会か、万一地域に紹介のできるアナバプテストの教会がない場合は、一度でも礼拝出席した信頼の置けるプロテスタントの福音派の教会となってしまう。しかしそれでも、私が一度も足を踏み入れていない教会を紹介するのも気が引けるものだ。どんな牧師の教会か、教会の規模はどのくらいなのか、また教会ごとに雰囲気はまったく異なる。紹介すべき教会のことを知らずに・・・心苦しいとしか言いようがないが、それでも明らかに間違った聖書信仰の教会を紹介するよりはましかなとも思える。
また、チャット上での紹介なので紹介する人のことも知らない場合が多い、紹介した教会が私には居心地の良い教会であっても、その方にはなじめない教会だったということもありえるからだ。何にしろ教会を紹介するというのは難しいと思う。しかし、教会を探すという労力も私にとっては、神様の恵みの一つなのだろうから、私は教会を紹介してほしいという人には・・・喜んで探している。

我が家にテレビがやって来た

我が家にテレビがやってきました。
地上デジタル放送があと何年かすると始まるというのに、アナログ対応のテレビを買いました^^
最近テレビの力ってものすごく大きいのだなと思います。ラーメン店の様子が放送されていましたけど、はっきり言ってなんで並ぶのか・・・・美味しいというなら、もっとほかにも美味しい店はあるだろうと思うようなところが出ていました。テレビの広告力というのはすごいですね。
以前通っていた教会の牧師は、礼拝メッセージによくリアルタイムに起こった最新のニュースのなかから事件を喩えに使っていましたが、私は「どうかな?」とよく思っていました。なぜかって???最新のニュースというのは時として事実とは違う場合があるからです。
イラクの戦争を見てください・・・大量破壊兵器があるからだという理由で戦争を始めましたが、その実・・・CIAの間違った情報収集だったことをブッシュ大統領も謝罪しています。当時、私が通っていた教会の牧師は、戦争賛成論者でした。メッセージの中にも大量破壊兵器についての批判的発言があり、戦争は当然だと主張していました。
また、あの松本サリン事件では報道機関の不適切な報道のためにどれだけ河野さんの一家が迷惑したか・・・。テレビの力というのは本当に怖いと思いますし、その力が良い方向に使われるならまだしも、間違った使われ方をすることもあります。ニュースというのは、そのまま事実ではないと常に私は思っています。殺人事件にしても、被害者、加害者の両方の真実を伝えているとは思えません。事件が起こってしまった背景には、報道では明らかにされない部分が多くあるからです。

情報に惑わされず、毎日を過ごしたい。そして、全てのことが明らかになるときが来ます。そのときを静かに待ちたいと思います。