2006/10/07

死を見つめて

このブログは、私の伯母の死に遭遇して止まってしまった。

そして、叔父の死・・・・。信頼していた牧師の死をもって感極まってしまった。

死という別れはとても辛い。誰もがこの死を迎えるとはわかっていても、自分だけは死なないような気がする。自分は大丈夫、死ぬなんて何十年も先のことと高をくくって生きているのではないだろうか。
私も、高をくくって生きている人間の一人だ。
伯母は、脳梗塞で眠るよう逝った。
叔父は、肝臓癌で・・・気がついたときには全身に癌が転移していて、ひと月も持たなかった。
牧師は、前立腺癌で余命一年の宣告を受けながらも、三年の闘病生活を続けつつ牧会された。
伯母や叔父の死は望みというものはない。悲しみがそこにはあり、残された人々は、ただ思い出だけを語り合う。
私は、クリスチャンであることを感謝している。死はわたしにとって恐れではないからだ。
クリスチャンにとって死は、神の国への勝利の凱旋であろうか。
胸を張って死んでいくのも滑稽だが、クリスチャンは胸を張ることが赦されている。そしてクリスチャンにとっては、死は最後ではない、滅びではない。死は、新たな旅立ちであり、永遠の始まりである。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(新約聖書:ヨハネの福音書3章16節)

死をこれからも身近なものと考えるようにならなければいけない。
そして、その備えもしたい。不様な死に様をこの世に残さないためにも。